Keep your eye on the donut and not on the hole.
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こんばんは✨️シズカです🎥
デビッド・リンチ訃報を受けてから、毎晩ちびちびと、2017年版の「ツイン・ピークス」を観ています。
私、デビッド・リンチって死なないと思ってたんだよね。
これは、水木しげる先生や楳図かずお先生が帰幽された時にも思ったことなのですが。
御三方に共通するのは「生きてるうちから、半分、あっちの世界に出入りしていた感」があるところ。
だから逆に、あっちの世に行っても、ひょっこりこっちに顔を出しそうな気がしちゃう。
私はこの、「帰幽」という表現が好き。
あくまでも魂の本来は幽世にあり、常にあるのは幽世で、現世は一部に過ぎない。現世を去ったら、幽世に帰るだけ。
寂しくならない考え方だと思う。
水木先生も「カランコロン漂泊記」にて「この世は通過するだけのものだから、あまりきばる必要ないよ」と、猫に語らせていますが、これも、帰幽の概念に通じるものがあるよね。
「カランコロン漂泊記」も、水木先生のエッセイと想像が入り乱れる構成なので、リンチ的と言えば、リンチ的。
あたい、「河童の三平」は、水木式「マルホランド・ドライブ」だと思っている。
デビッド・リンチの作風の特徴は
🎥潜在意識を顕在化する。
🎥漠然とした不安や恐怖と言った目に見えないものを可視化する。
🎥現実だと認識していたものの信用性が揺らぎ、無意識下に蓄積されていた情報が具現化する。
だと思います。
人間の精神の領域を占める割合は、顕在意識が5〜10%、潜在意識が90〜95%だといいます。
割合も現世と幽世に似ていますね🤔
現し世は夢、夜の夢こそ真。大乱歩も言っております。
作風の感触は違えど、私はデビッド・リンチはブローティガンや村上春樹にも似てると思う。
日常を少しずつ少しずつスライドしていって非日常に落とし込むとことか。
Now here(今、ここにある)と
No Where(どこにもない)を鮮やかに反転してみせるとことか。
リンチの場合は、二人よりもだいぶ、極彩色でグロテスクではあるけれど。
リンチは生前、「穴ではなく、ドーナツを見るように」と、よく言っていたそうです。
とか何とか言っといて
「ドーナツは穴があるからドーナツなのであり、穴こそがドーナツをドーナツたらしめているのでは?」
という方向に思考させる磁力が、リンチの作品には発生してる。
「自分が認識しているものは、一部に過ぎない」という疑問と想像力を持つことの楽しさを、デビッド・リンチの世界から教わったと思っています。
私が見ている赤ってほんとに赤なんだろうか。現実を現実だと確かめることなんてできるんだろうか。そう考えた時に生じる裂目から見えてくる世界の楽しさ。
その昔、三大奇書の一つ、「ドグラ・マグラ」を読むと精神に異常をきたすーーという曰くがありました。
私は二回読んだので、360度一周して正気に帰ってきたと思いたい。
(「ドグラ・マグラ」自体、最後まで読むと最初に戻る構造になっています。)
個人的には、「ドグラ・マグラ」を読むよりも、
文化的娯楽を筒井康隆と安部公房とデビッド・リンチに限定した生活を続けるほうが、ゲシュタルト崩壊への近道だ、と思っています。
デビッド・リンチ訃報を受けてから、毎晩ちびちびと、2017年版の「ツイン・ピークス」を観ています。
私、デビッド・リンチって死なないと思ってたんだよね。
これは、水木しげる先生や楳図かずお先生が帰幽された時にも思ったことなのですが。
御三方に共通するのは「生きてるうちから、半分、あっちの世界に出入りしていた感」があるところ。
だから逆に、あっちの世に行っても、ひょっこりこっちに顔を出しそうな気がしちゃう。
私はこの、「帰幽」という表現が好き。
あくまでも魂の本来は幽世にあり、常にあるのは幽世で、現世は一部に過ぎない。現世を去ったら、幽世に帰るだけ。
寂しくならない考え方だと思う。
水木先生も「カランコロン漂泊記」にて「この世は通過するだけのものだから、あまりきばる必要ないよ」と、猫に語らせていますが、これも、帰幽の概念に通じるものがあるよね。
「カランコロン漂泊記」も、水木先生のエッセイと想像が入り乱れる構成なので、リンチ的と言えば、リンチ的。
あたい、「河童の三平」は、水木式「マルホランド・ドライブ」だと思っている。
デビッド・リンチの作風の特徴は
🎥潜在意識を顕在化する。
🎥漠然とした不安や恐怖と言った目に見えないものを可視化する。
🎥現実だと認識していたものの信用性が揺らぎ、無意識下に蓄積されていた情報が具現化する。
だと思います。
人間の精神の領域を占める割合は、顕在意識が5〜10%、潜在意識が90〜95%だといいます。
割合も現世と幽世に似ていますね🤔
現し世は夢、夜の夢こそ真。大乱歩も言っております。
作風の感触は違えど、私はデビッド・リンチはブローティガンや村上春樹にも似てると思う。
日常を少しずつ少しずつスライドしていって非日常に落とし込むとことか。
Now here(今、ここにある)と
No Where(どこにもない)を鮮やかに反転してみせるとことか。
リンチの場合は、二人よりもだいぶ、極彩色でグロテスクではあるけれど。
リンチは生前、「穴ではなく、ドーナツを見るように」と、よく言っていたそうです。
とか何とか言っといて
「ドーナツは穴があるからドーナツなのであり、穴こそがドーナツをドーナツたらしめているのでは?」
という方向に思考させる磁力が、リンチの作品には発生してる。
「自分が認識しているものは、一部に過ぎない」という疑問と想像力を持つことの楽しさを、デビッド・リンチの世界から教わったと思っています。
私が見ている赤ってほんとに赤なんだろうか。現実を現実だと確かめることなんてできるんだろうか。そう考えた時に生じる裂目から見えてくる世界の楽しさ。
その昔、三大奇書の一つ、「ドグラ・マグラ」を読むと精神に異常をきたすーーという曰くがありました。
私は二回読んだので、360度一周して正気に帰ってきたと思いたい。
(「ドグラ・マグラ」自体、最後まで読むと最初に戻る構造になっています。)
個人的には、「ドグラ・マグラ」を読むよりも、
文化的娯楽を筒井康隆と安部公房とデビッド・リンチに限定した生活を続けるほうが、ゲシュタルト崩壊への近道だ、と思っています。