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憂国忌

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こんばんは✨シズカです😊

本日は、私が敬愛してやまない三島由紀夫先生の命日、憂国忌。先生を偲んで、厳かに過ごしています。

「三島由紀夫って、何がどのようにすごいんですか?」
「三島由紀夫って、何で自決したんですか?」

と聞かれることが度々ありますので、あくまでも、私が感じる三島文学の魅力について、ですが、筆を取ろうと思います。

一言で言うと、文章が美しい。数いる文豪の中で、最も美しい日本語を書くのが、三島先生だと思っています。

ただし、その美しさが特異な美しさである、と言う点に三島文学が唯一無二の金閣寺として、文学史上に聳え立つ理由があります。

三島文学の大きな特徴及び魅力は
🇯🇵逆説的なアプローチの完璧さ
🇯🇵相反的な概念を一体化させた時に生じる美しさ
🇯🇵日本人のイデオロギーを補完しようとする気高さ
にあります。

三島先生は自伝的な作品「仮面の告白」の冒頭に、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」からの一節を序文として掲げています。


「美―――美という奴は恐ろしいおっかないもんだよ!つまり、杓子定規に決める事が出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。
美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。俺は無教育だけれど、この事は随分考え抜いたものだ。実に神秘は無限だなあ!

この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出てくるようなものだ。ああ美か!その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母(マドンナ)の理想を抱いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の理想を持って終わるという事なんだ。いや、まだまだ恐ろしい事がある。

つまり悪行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや、実に人間の心は広い、あまりに広すぎるくらいだ。俺は出来ることなら少し縮めてみたいよ。

ええ、畜生、何が何だかわかりゃしない、本当に!理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一体、悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん?」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)


「仮面の告白」自体が、三島先生の性癖・美意識を形成した経緯の独白のようなものなのですが、この序文もまた、三島由紀夫と言う作家の美に対するスタンスを象徴しています。

私は、三島先生の文章を拝読するたび、カラヴァッジオの「ナルキッソス」を思い出します。

湖面に映る自分を見つめるナルキッソスが、シンメトリーに描かれた作品です。汚辱と悪行の中の美、純潔と聖性の中の淫らさ。見つめる自分と見られる自分。

私は、父の趣味が日本刀の収集だったため、日本刀=美術品として捉えている部分が大きいのですが、本来、日本刀は武器であるため、姿形の美しさは必要ないんです。機能美さえあればいい。

「美は無駄にこそ宿る」と言います。極論ですが、文化や芸術なんてものも、言ってしまえば、無駄の極みです。ヒトが生き物として生きるのには必要ありません。しかし、ヒトが人間らしく生きるためには欠かせないものです。

無駄の美と実用の美。相反する美を併せ持つ日本刀は、美術品の形態として、一つの最高峰に達しているのです。

本来ならば、両立が難しい美しさを両立している。三島文学の美しさは、まさに、日本刀のような美しさ、水の中で燃える火のような美しさを湛えている、と言えます。

美文で知られる文豪は数多くいます。端正、と言う美しさなら、夏目漱石、志賀直哉。耽美、と言う美しさなら、川端康成、泉鏡花ですが、三島先生の文章には、端正と耽美どちらも在る。

先生は「現代ヨーロッパの思想家で最も親近感を持つのはバタイユだ」とした上で、このように語っています。

「彼(バタイユ)は死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いているんです。その言うところは、禁止というものがあり、そこから解放された日常があり、日本民俗学で言えば晴(はれ)と褻(け)というものがあって、そういうもの—晴がなければ褻もないし、褻がなければ晴もないのに、つまり現代生活というものは相対主義のなかで営まれるから、褻だけに、日常性だけになってしまった。そこからは超絶的なものが出てこない。超絶的なものがない限り、エロティシズムというものは存在できないんだ。エロティシズムは超絶的なものにふれるときに、初めて真価を発揮するんだとバタイユはこう考えているんです」

美とエロティシズム、は三島文学を味わう上で重要なテーマです。生き物の中で、美を感じるのは人間だけ。一方のエロスは、最も動物的な欲求です。ここにもまた、相反する概念の一体化、相対化されて生じる概念、と言う三島文学のキーワードが見えますね。

また、先生は晴(非日常・公的・聖)と褻(日常・私的・俗)と言う感覚にも言及しています。神道概念における和魂と荒魂もそうですが、この両面的な価値観もまた、とても日本人的な感性です。

精神と肉体、性と死、公と私。政治的思想と文化概念。この相反する要素に両側から引っ張られて、磔刑になる姿。それが三島文学における「美」です。

「美」と言う漢字は、生贄に使われた、大きくて立派な羊の姿を元にした、と言います。

三島先生は、自決の一週間前に受けたインタビューにて、このように語っています。

「僕の内面には美、エロティシズム、死というものが一本の線をなしている。美、エロティシズム、死という図式は、最高の秩序、絶対者の中にしかエロティシズムはない。エロティシズムと名のつく以上は、体を張って死にいたるまで快楽を要求する、と言うこと」


三島先生は陽明学にも傾倒されていて、行動と実行の文士でありました。

著書「行動学入門」の中の「行動の美」にて先生は以下のように書いています。

「男の美が悲劇性にしかないことが確実なのは、行動というものが最終的には命を賭ける瞬間にだけ煮つめられるということと関係している。男の知性と肉体のうち、知性が命を賭けることはきわめてまれであるから、知性が美に達することはほとんど考えられない」

知性の権化のような三島先生に「知性が美に達することはない」と断言されると凄味がありますね。三島先生はご自身の肉体に対して深刻なコンプレックスを抱えていた方です。その反動から肥大した知性と、肉体への肥大した憧憬を抱えていたと言う前提を踏まえて、読み解くべきではありますが。このあたりの、知性と肉体の相克も、三島文学のロマンではあります。

先生はきっと、形而上で美とエロティシズムを仰ぐだけでは満たされず、自らの肉体を用いて、自らを貫き、絶対者の胴裏として自らを縫いつけるに至った。

「我、傷口にして刃。生贄にして刑吏。引き裂かれる四肢にして、処刑の車輪。血を奪われる心臓にして、吸血鬼」と書いたボードレールを彷彿とします。

私は、三島由紀夫自体が、平岡公威(※1)が創り出した作品だと捉えています。

自衛隊駐屯地での自決にも、前述した晴と褻の側面があると考えます。

日本人が日本人としての美徳を失うことに対する警鐘、国を憂うデモンストレーションが、晴の面。

平岡公威が想い描いた究極の美とエロティシズムに対して、己を刃とし、己を献体したのが、褻の面。

平岡公威は、最期の最期に、完璧なシンメトリーを成す聖セバスチャン像(※2)として三島由紀夫を完成させたのだ、と解釈しています。


(※1 三島由紀夫の本名)
(※2 「仮面の告白」の中に「グイド・レーニ画の『聖セバスチャンの殉教』を見て、13歳で初めて射精した」と告白する下りがある。後に、自らを聖セバスチャンとした写真作品を篠山紀信に撮影させている。)
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11月26日(Sun) 19:26
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