Arthur in the Dark
23いいね
こんばんは。映画大好きおばさんです🎥
本日も一緒に過ごして下さった皆さん、ありがとうございました😊
・
・
・
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」がラジー賞で最多の7部門にノミネートされてしまった件について。
上映時から賛否両論、どちらかと言うと酷評が目立つ本作でしたが、私はホアキン・フェニックス演じるアーサー版ジョーカーの落とし所は、これしかなかったと思います。
⚠以下、ネタバレあり感想
・
・
・
・
・
まず、前情報の「ジョーカーがガガ様と歌い踊るミュージカルらしいぞ」という点から、不穏な香りがプンプンしていたわけですが。
今作は、5件の殺人罪に問われたジョーカーことアーサーが、刑務所に拘留されているところから始まります。
死刑になるだろうことは明確だし、実際、物語後半で死刑宣告を受けます。
現実逃避のために妄想の中でミュージカルを繰り広げる死刑囚……ってこれ、後味悪い映画愛好家の皆さんなら、ある映画を思い浮かべると思うんだ。
そう、これは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」やないか。
冒頭、看守たちの黒い傘がアーサーが目を閉じた時にだけ、カラフルに変わる。
「これは、現実とアーサー個人の幻想が交互に入り乱れる物語ですよ」と示す導入部が巧い。
アーサーは裏切られた時、打ちのめされた時、目を閉じます。
妄想の中では、彼は愛する女性から愛され、民衆に支持されるダーク・ヒーローです。死刑を宣告されても、シンパたちが自分を救出しに来てくれる。けれど、現実には傍聴席から「この人殺し!」「さっさと死刑になっちまえ!」といった罵声が飛び交う。
「どこまでが現実で、どこからが幻想か」を、いろいろと考察できる仕掛けになっている映画なのですが、私は、ミュージカルパートだけではなく、レディ・ガガ演じるリーの存在自体もアーサーの妄想じゃないか?と思う。
妄想が二段落としになってるんだと思うの。
アーサーがとことん打ちのめされて、精神の逃げ場を失った時、リーが現れ、愛を施す。
でも、それが都度都度、現実的ではない状況で起きるんだよね。
前作「ジョーカー」は、アーサーが抱えてきたルサンチマンが発露するところで終わっていましたが、今作でのアーサーの扱いはひどい。ただただひどい。
アーサーをアンチ・ヒーローとしてではなく、とことん凶悪犯として扱います。
(それが当たり前なんだけれど)
「こいつは収監中・裁判中・精神鑑定中の連続殺人犯なんだよ」と、彼の立場を思い知らせるように、悪名高いシリアル・キラーたちをオーバーラップさせてきます。
死刑囚でありながら文化的な療法活動を許されるところはジョン・ウェイン・ゲイシー、自分で自分の弁護人を務めるところはテッド・バンディ、幼少期からの虐待で人格が分裂していく様はビリー・ミリガン。最初の殺人が、幼少期から自分を抑圧支配してきた母親であったところはヘンリー・ルーカス。
ビリー・ミリガンの24の人格の中には、女性の人格もあったんだよね。私は、ガガ様演じるリーも、アーサーが自分を救済するために生み出した人格じゃないか、とすら思う。
有罪判決を下され、死刑は免れないアーサーが、妄想の中で階段を上るシーン。
13階段のわかりやすいメタファーだと思うし、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で、死刑執行の日に、セルマが歌う「107 Steps」を彷彿とします。
前作が「タクシードライバー」✕「津山三十人殺し」だとしたら、今作は「ジェイコブズ・ラダー」✕「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と言ったところでしょうか。
階段の途中に、この世を去る前に一番会いたいであろう人、リーが待っていてくれるのも、さながら「ジェイコブズ・ラダー」。
けれど、そのリーも、プログラムされた台詞だけを繰り返すNPCのようになっており「アーサーの逃避想像力が枯渇し行き止まりになった」ということを暗に示している。
自分を理解して愛してくれたかのように見えた女性は、体を重ねるとき、キスをするとき、アーサーの顔にジョーカーのメイクを施す。
対する看守たちは、ジョーカーのメイクを洗い流して、アーサーに性的暴行を加える。
存在を肯定され、愛されるのは作り物の自分。
現実の自分は、馬鹿にされ、凌辱され、尊厳を踏み躙られるだけ。
性行為✕ジョーカーメイクの有り無しで、この対比を描いてくるトッド・フィリップス、恐ろしい子……!!
前作「ジョーカー」は本当に素晴らしい映画で、おそらくその続編に期待されていたのは、溜まりに溜まったルサンチマンをジョーカーが晴らしていくカタルシス、だったと思いますが、それはあっさり裏切られる。
「アーサー、君にはがっかりしたよ」という反応までを見越して、それすら作品の一部に含めた社会実験であるならば、トッド・フィリップス、なんて恐ろしい子……!!
「ハングオーバー!」シリーズ撮ってた人とほんとに同一人物かよ。
一番怖いのは、トッド・フィリップスがインタビューにて
「アーサーは苦悩の末、自分自身でいても良いと思うに至り、平穏を得ることができたんだと思います。彼はずっと、そのことで悩んで来たんです。彼は、自分らしく、安らかにこの世を去ったと思いたい」
と語っていること。
ラストシーンで、ダニエル・ジョンストンの 「True Love Will Find You In The End」(本当の愛が最後に君を見つける)が流れます。
アーサーを最後に抱きとめたのは、愛ではなく死。
死だけが自分を受け入れてくれる。死だけが自分を自分のまま肯定してくれる。死の温度を暖かい、と感じるほどに、アーサーの人生は寒々しいものだった。
それが唯一の安らぎ、って……。
トッド・フィリップス、やっぱり恐ろしい子……!
これは、ジョーカーになりきれず、アーサーのまま死んだ男の物語です。
ゴッサム・シティでバットマンと双璧を成すアンチヒーローの物語ではない。
ヒース・レジャー版ジョーカーは、他者の理解を必要としない。他者の愛にすがらない。ただ、純然とした悪としてある。
けれど、ホアキン・フェニックス演じるアーサー版ジョーカーは、どこまでも愛を求め、理解されることを欲し、どれも叶わぬまま殺されて終わる。
救いのない物語ではありますが、この容赦の無さこそが、トッド・フィリップス監督からアーサーに対する誠意だと、私は思います。
本日も一緒に過ごして下さった皆さん、ありがとうございました😊
・
・
・
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」がラジー賞で最多の7部門にノミネートされてしまった件について。
上映時から賛否両論、どちらかと言うと酷評が目立つ本作でしたが、私はホアキン・フェニックス演じるアーサー版ジョーカーの落とし所は、これしかなかったと思います。
⚠以下、ネタバレあり感想
・
・
・
・
・
まず、前情報の「ジョーカーがガガ様と歌い踊るミュージカルらしいぞ」という点から、不穏な香りがプンプンしていたわけですが。
今作は、5件の殺人罪に問われたジョーカーことアーサーが、刑務所に拘留されているところから始まります。
死刑になるだろうことは明確だし、実際、物語後半で死刑宣告を受けます。
現実逃避のために妄想の中でミュージカルを繰り広げる死刑囚……ってこれ、後味悪い映画愛好家の皆さんなら、ある映画を思い浮かべると思うんだ。
そう、これは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」やないか。
冒頭、看守たちの黒い傘がアーサーが目を閉じた時にだけ、カラフルに変わる。
「これは、現実とアーサー個人の幻想が交互に入り乱れる物語ですよ」と示す導入部が巧い。
アーサーは裏切られた時、打ちのめされた時、目を閉じます。
妄想の中では、彼は愛する女性から愛され、民衆に支持されるダーク・ヒーローです。死刑を宣告されても、シンパたちが自分を救出しに来てくれる。けれど、現実には傍聴席から「この人殺し!」「さっさと死刑になっちまえ!」といった罵声が飛び交う。
「どこまでが現実で、どこからが幻想か」を、いろいろと考察できる仕掛けになっている映画なのですが、私は、ミュージカルパートだけではなく、レディ・ガガ演じるリーの存在自体もアーサーの妄想じゃないか?と思う。
妄想が二段落としになってるんだと思うの。
アーサーがとことん打ちのめされて、精神の逃げ場を失った時、リーが現れ、愛を施す。
でも、それが都度都度、現実的ではない状況で起きるんだよね。
前作「ジョーカー」は、アーサーが抱えてきたルサンチマンが発露するところで終わっていましたが、今作でのアーサーの扱いはひどい。ただただひどい。
アーサーをアンチ・ヒーローとしてではなく、とことん凶悪犯として扱います。
(それが当たり前なんだけれど)
「こいつは収監中・裁判中・精神鑑定中の連続殺人犯なんだよ」と、彼の立場を思い知らせるように、悪名高いシリアル・キラーたちをオーバーラップさせてきます。
死刑囚でありながら文化的な療法活動を許されるところはジョン・ウェイン・ゲイシー、自分で自分の弁護人を務めるところはテッド・バンディ、幼少期からの虐待で人格が分裂していく様はビリー・ミリガン。最初の殺人が、幼少期から自分を抑圧支配してきた母親であったところはヘンリー・ルーカス。
ビリー・ミリガンの24の人格の中には、女性の人格もあったんだよね。私は、ガガ様演じるリーも、アーサーが自分を救済するために生み出した人格じゃないか、とすら思う。
有罪判決を下され、死刑は免れないアーサーが、妄想の中で階段を上るシーン。
13階段のわかりやすいメタファーだと思うし、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で、死刑執行の日に、セルマが歌う「107 Steps」を彷彿とします。
前作が「タクシードライバー」✕「津山三十人殺し」だとしたら、今作は「ジェイコブズ・ラダー」✕「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と言ったところでしょうか。
階段の途中に、この世を去る前に一番会いたいであろう人、リーが待っていてくれるのも、さながら「ジェイコブズ・ラダー」。
けれど、そのリーも、プログラムされた台詞だけを繰り返すNPCのようになっており「アーサーの逃避想像力が枯渇し行き止まりになった」ということを暗に示している。
自分を理解して愛してくれたかのように見えた女性は、体を重ねるとき、キスをするとき、アーサーの顔にジョーカーのメイクを施す。
対する看守たちは、ジョーカーのメイクを洗い流して、アーサーに性的暴行を加える。
存在を肯定され、愛されるのは作り物の自分。
現実の自分は、馬鹿にされ、凌辱され、尊厳を踏み躙られるだけ。
性行為✕ジョーカーメイクの有り無しで、この対比を描いてくるトッド・フィリップス、恐ろしい子……!!
前作「ジョーカー」は本当に素晴らしい映画で、おそらくその続編に期待されていたのは、溜まりに溜まったルサンチマンをジョーカーが晴らしていくカタルシス、だったと思いますが、それはあっさり裏切られる。
「アーサー、君にはがっかりしたよ」という反応までを見越して、それすら作品の一部に含めた社会実験であるならば、トッド・フィリップス、なんて恐ろしい子……!!
「ハングオーバー!」シリーズ撮ってた人とほんとに同一人物かよ。
一番怖いのは、トッド・フィリップスがインタビューにて
「アーサーは苦悩の末、自分自身でいても良いと思うに至り、平穏を得ることができたんだと思います。彼はずっと、そのことで悩んで来たんです。彼は、自分らしく、安らかにこの世を去ったと思いたい」
と語っていること。
ラストシーンで、ダニエル・ジョンストンの 「True Love Will Find You In The End」(本当の愛が最後に君を見つける)が流れます。
アーサーを最後に抱きとめたのは、愛ではなく死。
死だけが自分を受け入れてくれる。死だけが自分を自分のまま肯定してくれる。死の温度を暖かい、と感じるほどに、アーサーの人生は寒々しいものだった。
それが唯一の安らぎ、って……。
トッド・フィリップス、やっぱり恐ろしい子……!
これは、ジョーカーになりきれず、アーサーのまま死んだ男の物語です。
ゴッサム・シティでバットマンと双璧を成すアンチヒーローの物語ではない。
ヒース・レジャー版ジョーカーは、他者の理解を必要としない。他者の愛にすがらない。ただ、純然とした悪としてある。
けれど、ホアキン・フェニックス演じるアーサー版ジョーカーは、どこまでも愛を求め、理解されることを欲し、どれも叶わぬまま殺されて終わる。
救いのない物語ではありますが、この容赦の無さこそが、トッド・フィリップス監督からアーサーに対する誠意だと、私は思います。