藤井 りかのブログ

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そもそも誰?津田梅子さん。

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五千円札の新しいお顔の津田梅子さん。この方は1864年。元、佐倉藩の藩主で農学者である津田仙と言う人物の娘で現在の新宿で生を受けました。

父親の仙は江戸幕府の使節(しせつ)の随員として福沢諭吉らと共に渡米した事がある人物で年号が明治に変わってからはそれまでしていた通訳の仕事を辞めて北方(ほっぽう)を開拓する開拓使になるんです。
※明治初期に置かれた日本の官僚の事を開拓使と言います。

このタイミングでアメリカ訪問時に男女平等教育の必要性を実感した開拓次官の黒田清隆が開拓使による女子留学生のアメリカ派遣事業ってのを立案して仙は娘の梅子に留学の応募をさせます。女子留学の待遇が日本政府が旅費と学費、生活費を全額負担。更に奨学金として800ドル(現在の約300万)を支給するものでして、勉強も出来て300万ももらえたんです。

しかし留学期間は10年と長い上に女性と言う事もあって婚期を逃す可能性があるとして人気がなかったんです。こう言った理由もあり女子留学生の留学に応募した女性は梅子を含めてたった5人でした。この時梅子はまだ6歳。日本人初の女子留学生としてアメリカに行ったんです。父親に無理矢理行かされたのではなく自分の意志で留学を決めたと後に語っております。凄い6歳児です。

ただまだ6歳って事もあり話せる英単語は2つか3つのみ。言葉の通じない異国へ行くのには相当な勇気だったと思います。

留学中はワシントンに住む夫婦に預けられ、そこから学校に通い、フランス語、ラテン語、数学物理学、天文学を学びます。11年後に帰国した時には全て日本語を忘れてしまってたんですね。更に帰国する約半年前に女子留学生の授業を管理していた開拓使制度は廃止されてしまっていて、17歳で帰国した梅子には職も用意されていなくすっかり居場所が無くなってしまっていたんです。そして日本語が話せない。。。

他の留学生達は結婚したりしていて「結局女は結婚かよ!」と当時の風潮に深く失望して留学中お世話になった夫妻へ手紙を書きます。梅子をもう実の娘のように思っていた夫妻は帰っておいでと言葉をかけますが梅子は留学生として渡米したからには日本に留まり恩返しをしなくてはいけない責任が私にはあると夫妻へ返答します。

日本人女性の地位向上と教育に生涯をかける強い決意があったんですね。梅子には何度も縁談の話しもありましたが「私に結婚の話しすんなよ、うんざりだから」と言い切った程でした。

帰国後は後の青山学院になった学校で英語教師として働きます。ちょっとはしょりますがこの時に伊藤博文夫妻とその娘に英語を教える事になるきっかけがあり

梅子は伊藤家へ英語が教えられる
伊藤家は梅子に日本語を教えられる

と言った利害が一致し伊藤家の住み込み家庭教師となります。1885年に女学院から独立して設立された華族女子校で英語教師になります。そして3年後梅子はアメリカに再び留学をします。24歳でした。この時生物学を学びカエルの発生などの研究が高く評価されて日本人女性初として欧米の学術誌に掲載されます。

日本へ帰国してからは津田塾を東京都千代田区の借家へ開校します。梅子を会長とした日本キリスト教女子青年会の設立など今までと違った女性への教育へ強く力を入れて行くようになります。

日本人女性の向上へ大きく貢献した人物として名を残した女性だったんです。

64歳でこの世を去りますが梅子のお墓は津田塾に現在もあり、お墓参りした女性は結婚が出来なくなると言った都市伝説があるようです。

いや、津田梅子さんは結婚する人生を選ばなかったけど別に結婚に対して恨みはなかったと思うのですが。。。失礼な都市伝説です。

6歳でアメリカへ留学し、日本人女性への教育へ力を入れたこちらも「誰?」なんて言ってられない素晴らしい人物だったんですね。

藤井りか

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08月13日(Tue) 18:45
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